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瓶詰めの青

零したり詰めたり

だれかに愛され、そのひとを置きざりにして、 死んでみたい 夜、昼、朝、

最果タヒ『教室』


どうせ死ぬなら好きな人に殺されて死んでみたい。でも心中は絶対に嫌。

死にたい病はかなり治ってきたのですが好きな人に殺されたい病は治りません。多分、重要なことは殺されることではなく、死ぬことでもなく、ただ好きな人のエゴを一身に一心に受け止めることなのだと思う。愛はわりと殺意に転がりやすい感情なのは有名な話だと思いませんか?

そして心中が嫌なのはわたしにエゴをぶつけたあなたから永遠に逃げ去ってみせたいからだと思う。
さよなら愛した人。もう思い出すことも無いでしょう。
せせら笑ってあげたい。殺されても、捕まってはあげない。

まあ何にせよ相思相愛の存在がいないし、仮にいたとしてもよほどのことがない限り実現はさせないだろう。
それこそ世界から逃げないといけない状況に陥らないかぎり。でも、そういう時はわたしだけでなく相手も世界から逃げるべき状況に陥ってるんじゃないかな?

それなら、心中する?

いやいやまさか。

死んでも一緒にいられるほど愛してたら別だけど。

私は、女のドラァグ・クイーンだ。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』

ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。』(二階堂奥歯『八本脚の蝶』)


「少女」「女」が架空の存在だと彼女は述べている。私もそう思う。そうした存在は世間(主に男の人)に都合良く消費されることも知っている。
しかし私は(私も)そういうモノになりたい。自分の体が消費されるだけの価値がある肉だと教えられたいのだきっと。

嘘だ。私は蹂躙したい。侵略したい。少女と女の持つ「美しい」という免罪符を手にして。美しいのはすばらしい武器だ。

「少女」にはなれないまま少女の頃は過ぎた。今、私は「女」になりたい。

ままならない。


ふと思ったけれど、男の人は「少年」とか「男」の仮装をするのかなぁ。

『鳥籠から出る時が来たようです。あなたのせいで今日まで幸せでした。』

青桐李『最後の薔薇』



高校の頃の個人本を読み返していた。少女文学といった感じだった(この頃は嶽本野ばらに被れていた)。稚拙すぎるものも多々あるが、なかなかいいのもある。気に入らないものはページ数合わせに書いたものばかりだから、やる気は大切だなぁ、と馬鹿みたいに思った。

本当のことでもつくりごとでも、こうして書くことは意外と幸福だ。自分から逃れ去る何かを残すこと。わたしを読み解いてとだれかへ訴えること。
人間とは恐らく言葉だ。愛しく憎く美しいもの。

今まで続けてきたが、言葉選びなど、少しは上手くなっただろうか。物語は洗練されただろうか。汲み取ってもらえるような魅力は生まれただろうか。
その答えはまだ(永遠に?)わからない。
わからないけど、私は今しばらく書き続けようと思う。目を通すすべての人(未来の私も含む)に、解釈してもらうために。
展翅した私の心のかけらを。

青は遠い色。

谷川俊太郎『青』


夢の話の続きをしよう。

証言が二転三転するが、私は青い夢を一度だけ見たことがあった。1年ほど前のことだったと思う。その時私はおそらく起きていたから、正しくは夢と言えないかもしれない。しかし私はあれを現実と思いたくない。

その時私は例によって涙を流していて(かなりどうでもいいが私はひとりだとわりとよく泣く。ひとりになってはじめて泣く自由を得られるので、少し嬉しかったりもする)、しかし普段よりも気分の落ち込みが酷く、起きて泣いて眠るのサイクルを繰り返していた。そして何度目か目覚めた時に、目の前が青く見えたのだ。実際には青く見える要素が何もないのだから、青くはなかったのだが、私はその時目の前の青を感じた。そしてただ漠然と「幸福だ」と思った。ひとりきりでただ幸福感だけを噛み締められた。あれほど満たされた感覚を得られたのはあれ以来ない。もう二度と訪れないのかもしれない。


錯覚の中の幸福は青色をしていた。
だから私は、夢は青色であれと空想するのだ。

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血液は逃避の路線

amazarashi『スピードと摩擦』より


自分には本当に好きといえるものが何もないのに気がついた。心からやりたいと思っていることなどなかった。

本を読むのは現実から逃げるため。
文章を書くのは現実から逃げるため。
眠るのは現実から逃げるため。
音楽と接するのは現実から逃げるため。
愛飲するのは現実から逃げるため。

すべて強迫観念めいている。やりたいわけじゃない。趣味なんかじゃなくただの逃げ場だ。

私の生きている現実はモノにもカネにも愛にもそこそこ満たされていて十分幸福なはずだ。それなのに私はいっこうに満たされる気配がない。幸福がわからないのは致命的な欠陥だと思う。わからないなら、どれだけ近くにあってもないのと同じだ。

あるいは私が逃げたいのは現実ではなく私自身なのかもしれない。私でいることが耐えられないのかもしれない。不完全な女のコスプレしかできない自分に自信を持てたことは、ない。

自分を換金できたら、としばしば思う。カネという目に見える価値で自分を評価できたら安心できる気がうっすらする。
「あなたの値段は○○円」
○○が与えられれば、私が何をしても○○円ということにはならないだろうか。そうすると自分のことを妙に高く見積もることも低く見積もることもなくなるだろう。○○がどのような値になっても必ず(迷いもなく)受け入れるという前提がいるけれど。


ここまで書いて小学生の頃に『あなたのエラさは何ポッチ?』(多分こんなタイトルだった)というSF短編を読んだことを思い出した。タイトルしか覚えてないけど。アンソロの中の一作だったと思う。

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空想の中でだけ、人々は幸福と一しょだ。

森茉莉『贅沢貧乏』より

夢の話の続き。

昨日は夢についてのイメージを書いたが実のところ私は青色の夢を一度たりとも見たことがない。一番よく見る夢は歯が抜けたり砕けたりする夢(色は灰色からセピア色)で、全然楽しくない。この夢を見る時は必ず疲れている時なので一種の目安として活用はしているけど。

だから昨日書いたことは私の夢に対しての夢なのだろう。いくら願っても叶わない夢。手の届かない憧れ。
夢でくらいは幸福感に包まれたいが私には高望みなのかもしれない。

夢こそこの世の真正の現実。そうして宝石。

森茉莉『贅沢貧乏』より


ここしばらく必要にかられて夢について考えている。具体的な夢ではなく漠然とした夢イメージについて。


以下個人的イメージ

・青い色をしている
・誰にも触れないもの
・ひとりで見るもの
・無音
・非言語的
・孤独
・球形
・硬質


いつだったか無機質なイメージを与える人間と評されたことを思い出した。私は、確かにそうだろうなぁと思ったのだった。