瓶詰めの青

零したり詰めたり

あの人の考えるあの人の人生に私の居場所がないことを悲しく思ったことがあった では 私の考える私の人生にはあの人の居場所は今ある?

天野しゅにんた 『philosophia』

 

本気で愛し愛されたいと言いつつも、他愛無い肉体的接触と言葉遊びを繰り返していることが結構好きだ。

あなたはちょっと特別、みたいなトーンとか目線とか表情とかタッチとかを、1割考えて残りは無意識でしてみたり。心がついてくるように、本当に愛しいという気持ちを思い出しながら手をつないだり。

 

肉体的に触れ合っている間は本気で好きにはなれないと思う。あなたはわたしの心など見えてはいないし、わたしもまた見えてはいないのだから。しかしほとんど考えずに動いている間、一瞬、まるで本当に好きなような錯覚を起こせるときがある。

錯覚を繰り返しているうちに本当に好きになったりもする。その時は本当に本気だから、相手のすべてを受け入れたくて、相手が望むなら多少イヤなことでもする。言うことも大抵聞く。こういう状態はおかしいと思っても無理やり納得する。こんな関係性は明らかに歪だからいつも長持ちしなくて、わたし自身から別れを告げる。恋に恋していたんだなと思いながら。

そして本当に愛し愛されることをまた願う。

 

不毛の極みだ。

 

***

 

わたしの考えるわたしの幸福な人生には、恋人ポジションが不在なことに気がついた。愛し愛される関係を築くことが最も幸せなことだと思い、それを望みつつも、「わたしの」幸福な人生にはその要素が含まれていない。

 

なぜならわたしは「異性に愛されること」を信じていないのだ。それは幻想だと本気で信じている。男の人がわたしを好きだと言うときは、単にセックスがしたいからだと思っている。だからわたしは、あなたの好きはただの性欲なのだと教えたくて、あっさりと応じる。その好きがわたしの求める好きではないとわかっていても、好きと言われたいからわたしはそれからも好きな人の言うことを聞く。好きと言われたい一心で自分の本心から目をそらす。

 

そうではないと信じていたが、わたしはこれもまたある意味男性不信なのだなと気付かされた。原因はかなりある(細かくは書けない。要は犯罪被害だ)。

わたしは心を愛されたいのに、それを愛されることを信じられない。友達としての男性は面白くて優しいし尊敬できるのに、恋人としての男性はわたしのことを心から愛して大切にしてはくれない生き物だろうなという歪な感覚を持ってわたしは生きている。だからか、友達としての男性は好きになれない。友達だから彼らはいい人なのだから。そして、あまりよく知らない人を恋人に選ぶ。

 

願っていることと信じていることが矛盾しているからわたしは苦しいのだろう。わたしの考えは間違っていると言葉にして表してみても、わたしは自分が男の人にとってはただのオモチャでしかないんだという感覚がなくならない。

ほしいものが、ほしいわ。

糸井重里

 

斎藤環『生き延びるためのラカン』で見つけた。胸を打ち抜かれた気分だった。

 

わたしは、いつも「欲しいもの」が欲しくて苦しい。だから世間的にあったら幸せだよ~!!という感じになっているものを欲しがる。最たるものが愛情(恋人)。あとは服とか化粧品とかアクセサリーとか食べ物とか短期的な欲しいもの。

 

昔は欲しいものが手に入ると嬉しかったし、楽しかった。

でもいまは、手に入って満たされることが、少なくなってきた。

買った服は一応ちゃんと着ている(ほとんど買わなくなったけど)。でも化粧品とかアクセサリーは買っても半分も使わなかったり、そもそも開封しなかったり。食べ物は買ったり注文するはしから、別にいらないのにと後悔していることがある。さっきまでこれが食べたい、と思っていたはずなのに、口に運ぶ時には後悔しながら運んでいたりする。お金大事にしないとなぁ、と思いながら食べるものはそんなにおいしくない。また太るなぁ、わたしはだめだなぁ、と思ったりする。さらにおいしくない。

たまに飲みすぎて吐いたら、どこかで少し安心している。これで痩せられる!とひそかに思っている。こんなこと続けてたらどこかで摂食障害になりかねないぞと思うけど、自発的に吐こうとしていないから大丈夫だろうとも信じている(実際のところわたしはまだまだ大丈夫だ)。

 

わたしの「欲しいもの」は、本当はもうないのだろうか。それとも「欲しいもの」を見る目が曇ってしまったのだろうか。それともお金を使いたいからなんとなくものを欲しいと感じて支払っているだけ? お金を使って得ているのは何? 本当に望んでいる?

欲しい気持ちにばかり振り回されている。わたしはたぶんものが欲しいのではなくて、きっと欲しいものを得た充実感とか達成感が欲しいのだ。

ならば、何か目標を作って頑張って達成感を得たらいい。自分も変われるし素晴らしいアイデアじゃないか、と思う。そうしたいと思って、そうする。達成する。一瞬、嬉しくなる。

けれど、頑張って得た達成感は何かが欲しい気持ちよりもずっとずっと儚くて、わたしはまたすぐに何かを欲しがっている。「欲しいもの」は空っぽのくせに欲しがっている。満たされたくて、幸せになりたくてたまらない。結局わたしは幸せになりたいのだ。「幸せ」もまた漠然としている。「幸せ」を欲しがる気持ちに振り回されている。

 

欲しいものを見極めたい。

 

 

 

 

来年やりたいこと

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

・就職・・・・・・もちろんしたいです。

 

・卒研・・・・・・まだテーマも決めてないけどね。でも、来年の今頃には初稿はほぼ完成させないといけないと思うとそろそろ真剣にやりださないといけません。

 

・制作・・・・・・就活落ち着いたら真剣に長めの作品をひとつ書きます。顔のある登場人物を作る。

 

・読書・・・・・・家の掃除をしてたら買って読んでない本がかなり出てきました。特にレオ=レオニ平行植物』はせっかく頂いたものなので就職するまでに2回は読みたい。三島由紀夫の『春の雪』は高校の頃に読んで再読しようしようと思って未だにだし。森博嗣のVシリーズだって全部読まないと。

 

・ピアノ・・・・・・どうしても弾きたい曲があります。悲しいを通り越して笑えるほど技術がありませんが、来年が人前で演奏する最後の機会となると思うので、何かを残すことができたらいいと思っています。

 


女王蜂 Queenbee - L'hymne à l'amour - Paris 2016

 

 

 

・ダイエット・・・・・・来年に間に合わなくてもいいんですけど、女王蜂のライブにジュリ扇&チャイナ服で行きたいので服が似合うような体型になります。猫背を直して胴を細くしたい。ちなみにジュリ扇は買いました。ショッキングピンク!

 

 

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「問題ない。」と呟いて、言葉は失われた?

wowaka 『ローリンガール

 

3日間ほとんど食べずに泣いて暮らしてみた。

自分の幼稚さや至らなさや考えの浅さがよくわかった。

 

ひとしきり泣いて、ぐちゃぐちゃになった何かをある程度解いてみたら、今までのように「なにか」を書きたくなって、パソコンを立ち上げてみた。

でも、何も書けなくなっていた。

いや、ずっと前から何も書けなかった。

 

わたしの中にある、表現できる世界、は高校のころに書き尽してしまっていてもうわたしには何もないのだ。いや、すべて、言葉にできないところまで行ってしまった。わたしの「なにか」は結構前からわたしの言葉ではさわれなくて、そのことを、わたしは成長とかいう嘘でごまかしていた。でも今は思う。わたしは「なにか」をまさに瓶に詰めて、さわれなくしてしまった。

「なにか」について考えたくなかったから。「なにか」から逃げたかったから。「なにか」を閉じ込めたかったから。

 

だから今、「なにか」に救いを求めても「なにか」は助けてくれない。

わたしはすごくばかだ。

 

 

 

生まれ変わったらもう僕は救われたくはないな。

the cabs『キェルツェの螺旋』


悲しいとき、苦しいとき、辛いときだけ何かを書くことができる。
何かを記す回数だけ私は苦しい。


明るい気持ちは形にできないけど暗い気持ちは形にできる。幸せからなにかをつくる人になりたかったと、いつも思う。幸せからでなくても、暗い気持ちを形にできない人でありたかった。

消えてしまいたいときだけ筆が進むのはどうしてなのだろう。消えちゃだめだというどこかからかの制止かな。助けを呼ぶ声なのかな。

助けを求めるのは、だめだ。
やっぱり迷惑だから。
この、助けを求める口を、ふさぎたい。

書くことは生きることだ。生きることはやはり苦しい。
幸せを幸せに書ける人に生まれ変わりたい。
書くことに救われずにすむ人に。

「こんにちは。あたしはビビガール、完全無欠なお人形です。」

ミヒャエル・エンデ 『モモ』

 

欠点があってよかった、個性があってよかったと思った日は一度もない。

 

欠点をなじられること、個性を馬鹿にされること、生きるってつまりそういうことの繰り返しで、だから人は大人になる前にできるだけ平準化されていくべきなんじゃないのかな。個性や、欠点さえも魅力のある限られた(意外とたくさんいる)人々以外は。

 

少し昔、落ち込むとしばしば手首を切る知り合いがいまして、その人が結構好きだったわたしはその心理を理解してみたくて、(あとちょっとひとのやさしさがほしくて)悲しいときに同じようにしてみたんですね。結果どうなったかって、知り合いの周りは今までどおり同情が集まって、わたしの周りには今までどおり大して集まらないままでした。

行動の痛々しさは同格でも、他人の目を集められるか否かは結局その人の運というか実力というか、まぁとにかくわたしにはできないんだなぁ。

落ち込んでそうする心理は大して理解できないまま別の真理を得ました。

今思うとそれは一番乗りではなかったからではないかなーという気もしてきた。優しくされたかったら手首とかメソメソしてないでもっと思い切った手を打つべきでしたね。このころからすでに詰めが甘い。

 

 

欠点も個性も魅力に変えられる人はすごいなあ。つまり人はみんなわたしよりすごい。

わたしは、わたしより優秀で優しくてうつくしくてすばらしい人々しかいない世界に生きている。この場所は天国と同義のはずなのにどうして幸せと思えないんだろうか。

 

きみがいる戦場は眩しすぎてなにもみえない

People In The Box『逆光』


少し昔、本当に心の底から好きだったひとがいて、そのひとのいる夢はすべて金色に眩しく霞んでいた。


そのひとのどこが好きだったかは思い出したくもない。もう二度と好きになりたくないから。
しあわせより辛い時間ばかりが積もってどうしようもない日々だった。時間の浪費とはまさしくこのことだろう。過程だけに価値を見出すことは、わたしにはできない。


もう二度とあんな風に好きな人は現れないだろうなぁ、と思うと、いよいよ本当に生きている意味を喪失しかねないけど、現れないのではなく現さないのだ。わたしが、わたしの意思で。
生きている価値がない時間を漂う余生。別のひとにこの時間を分けてあげたい。たとえばあのひととか。